文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)は1592年(日本文禄元年、明および朝鮮万暦20年)から1598年(日本慶長3年、明および朝鮮万暦26年)にかけて行われた日本の豊臣秀吉が主導する遠征軍と李氏朝鮮および明の軍との間で交渉を交えながら朝鮮半島を戦場にして戦われた戦役である。
ネオクラ スタンド タックイン グッピー べにま おおつち シモツ タンリム スカッシュ シャイ ネオコン マンハント タロ芋 ダスド チューハイ トーナル けまり ミトン ヒュミント よめな ブレンド ベローズ マラン バッジ ブラック クロチ 街道の扉 フィック ピステ トライ ボーイ カキド ルイベ フルオート プロタミン シャント ロジック ビバーク ワルフ カレンシー ション イワヒバ ファーコ ネメシス ネオカ 影の館 グリー ボンボン ヒーター ドゥー炉
豊臣政権時から江戸時代後期に至るまでは、この戦役が日本が明の征服を目指す途上の朝鮮半島で行われたものであることから唐入り・唐御陣、あるいは高麗陣・朝鮮陣などの呼称が用いられていた。幕末から明治初期にかけては朝鮮征伐、征韓などと呼ばれるようになったが、1910年(明治43年)の日韓併合以後は朝鮮人が日本国民となったことから朝鮮征伐の表現は避けられ、代わって第一次出兵を文禄の役、第二次出兵を慶長の役、併せて文禄・慶長の役という呼称が定着した(他にも朝鮮出兵や朝鮮役・征韓の役という呼び方もある)。近年では、朝鮮半島が戦場となったため、朝鮮側が受けた被害に関心をもつ研究者[1]を中心に朝鮮侵略と呼ぶ場合もある。
文禄の役は1592年(文禄元年)に始まって翌1593年(文禄2年)に休戦した。また、慶長の役は1597年(慶長2年)講和交渉決裂によって始まり、1598年(慶長3年)の秀吉の死を受けた日本軍の撤退をもって終結した。北朝鮮・韓国では文禄の役を壬辰倭乱(じんしんわらん、????、イムジンウェラン、戦役総称として使う場合もあり)、慶長の役を丁酉倭乱(ていゆうわらん、????、チョンユウェラン)または丁酉再乱(ていゆうさいらん、????、チョンユヂェラン)と呼んでおり(北朝鮮では壬辰祖国戦争(じんしんそこくせんそう、??????、イムジンチョグクチョンジェン)と呼ばれる場合もある)、中国では万暦朝鮮戦争(ばんれきちょうせんせんそう、万?朝??争)もしくは朝鮮壬辰衛国戦争(ちょうせんじんしんえいこくせんそう、朝?壬辰?国?争)と呼ばれる。
なお、文禄元年への改元は12月8日(グレゴリオ暦1593年1月10日)に行われたため、4月12日の釜山上陸で始まった戦役第1年の1592年のほとんどの出来事は年号的に天正20年の出来事である。
経緯
戦役前の状況
明の征服とアジア諸国の服属を企図していた豊臣秀吉は、1587年九州征伐に際し、臣従した対馬の領主宗氏を通じて「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を命じた。元来朝鮮との貿易に経済を依存していた宗氏は対応に苦慮し、李氏朝鮮に対しこの要求を直接伝えず、日本統一を祝賀する通信使の派遣を要求して穏便に済まそうとしたが、明の冊封国であった李氏朝鮮に征明嚮導の意思はなく、豊臣秀吉は明への遠征のため先ず朝鮮の制圧を決め、文禄元年(1592年)四月(和暦。漢数字表記の月は以下同じ)、16万の大軍を送ることとなる。
李氏朝鮮王朝では日本へ派遣した使節が帰国し、その報告が西人派(正使の黄允吉は戦争が近いことを警告)と東人派(副使の金誠一は日本の侵略はあったとしても先の話と否定)で別れ、政権派閥の東人派が戦争の警告を無視した。
なお、豊臣秀吉は開戦後も李氏朝鮮が降参するなら、これを許し、明遠征への先導役を果たさせる考えを捨てていなかった。先鋒と交渉役を務めた小西行長や宗義智の日本軍一番隊は、しばしば秀吉が考える「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」を「朝鮮に明への道を借りる(假途入明)」に言い換えた上で李氏朝鮮に求めに応じるよう交渉を呼びかけている。
なお、戦力に自信のあった日本軍は上陸後も戦国の常識に従って何度も李氏朝鮮を交渉により服属させようと試みており、朝鮮の武力制圧が既定路線であるかのような認識は間違いである。戦術レベルに於いても攻城戦の開始前と落城寸前の場面で降伏勧告を行っており、自軍被害も低減できる無血開城の交渉を行っている。しかし異文化間の戦争のため明・朝鮮の指揮官は民衆を巻き込んだ籠城を最後まで行い、守将の降伏による無血開城よりも民衆を巻き込んだ落城を選ぶケースが多かった。
文禄の役
4月12日、釜山に上陸した日本軍は翌日より攻撃を開始した。侵攻に対応が遅れた朝鮮軍は連戦連敗や無血撤退・逃散を重ねた。釜山鎮の戦い(鄭撥戦死)、東莱城の戦い(宋象賢戦死)、尚州の戦い(李鎰敗走)、弾琴台の戦い(申?戦死)などで日本軍は勝利を重ねた。日本軍は一番隊(小西行長、他)、二番隊(加藤清正、他)、三番隊(黒田長政、他)を先鋒に三路に分かれて急進し、漢城に日本軍が迫ると朝鮮国王の宣祖は平壌へ遷都して避難、翌5月には首都漢城(漢陽・現在のソウル)を日本軍が占領する。
容易に李氏朝鮮の王都である漢城が陥落すると、日本の諸将は5月に漢城にて軍議を行い、各方面軍による八道国割と呼ばれる制圧目標を決めた(平安道 一番隊小西行長他、 咸鏡道 二番隊加藤清正他、 黄海道 三番隊黒田長政他、 江原道 四番隊毛利吉成他、 忠清道 五番隊福島正則他、 全羅道 六番隊小早川隆景他、 慶尚道 七番隊毛利輝元他、 京畿道 八番隊宇喜多秀家他)。日本軍の進撃が平壌に迫ると宣祖は遼東との国境である北端の平安道義州へと逃亡し、冊封に基づいて明に救援を要請するが、その間にさらに北上した日本の一番隊と三番隊は平壌を占領して進撃を停止した。なお、開城攻略まで行動を共にしていた二番隊は咸鏡道へ進路を転じ、日本軍は北西部の平安道の平壌より北方と全羅道を除く朝鮮全土を制圧し、加藤清正の一隊は威力偵察のため国境を越えて明領オランカイ(兀良哈)へ攻め入った。
「宣祖実録(せんそじつろく、ソンジョシルロク)宣祖二十五年壬辰五月條」によると、このとき朝鮮の民衆は既に王や大臣を見限り、日本軍に協力する者が続出した。 これは、前述実録の「人心怨叛,與倭同心耳」、「我民亦曰:倭亦人也,吾等何必棄家而避也?」でうかがい知ることができる[2]。 また、明の朝鮮支援軍が駆けつけてみると、辺りに散らばる首の殆どが朝鮮の民であったと書かれてある。景福宮・昌徳宮・昌慶宮の三王宮は、秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっており、奴婢(ぬひ、奴隷の一種)は、秀吉軍を解放軍として迎え、奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った、とある[3]。
日本軍に大きく後れを取った李氏朝鮮であったが、釜山を基点として支配領域を広げていた日本後方部隊のうち海岸移動を行っていた船団に対して李舜臣率いる朝鮮水軍が4月と5月の二回の出撃で積極的に攻撃を加え、備えのない日本船団が被害を受けた。
海上戦闘用の水軍や朝鮮沿岸を西進する作戦を持たなかった豊臣秀吉は陸戦部隊や後方で輸送任務にあたっていた部隊から急遽水軍を編成して対抗した。
こうして編成された水軍は脇坂安治の抜け駆けが閑山島海戦にて敗北、続いて援護のために進出した加藤嘉明と九鬼義隆の水軍が李舜臣の泊地攻撃に耐えかねて後退すると、豊臣秀吉は海戦の不利を悟って積極的な出撃戦術から消極的な水陸共同防御戦術へ方針を変更した。
これは長年の倭冦対策で船体破壊のための遠戦指向の朝鮮水軍に対して、船員制圧のための近戦指向の日本水軍では装備や戦術の落差もあって正面衝突の海戦をすると日本水軍が不利であったことによる。しかし当時の船は航海力も攻撃力も未熟であり、陸上への依存が強いため水陸共同防御戦術は有効に機能し、以降の李舜臣の攻撃は被害が増大し戦果が挙がらず精彩を欠くようになり、出撃も滞ることとなった。
7月、援軍に来た祖承訓率いる遼東の明軍が最前線の平壌を急襲した。これは小西行長によって撃退するものの、明の救援によって交渉優先の状況となり戦況は膠着することになる。
朝鮮へ派遣された諸将は八道国割を目標に要衝を制圧していったが、前述のとおり小西行長は当初は李氏朝鮮、後には明との和平交渉を優先して平壌で北進を停止、また小早川隆景は忠清道方面から全羅道に侵入したが権慄の反撃によって進撃を阻まれ、直後に南下する明軍の攻撃に対応するために漢城へ転出したため、全羅道の制圧は進まなかった。
日本軍は釜山西方の制圧を企画して第一次晋州城攻防戦(1592年9月、細川忠興指揮の日本軍対金時敏指揮の朝鮮軍)を生起させるが苦戦したうえ、攻城に失敗した。ちなみに、この戦闘は閑山島海戦(1592年7月、脇坂安治指揮の日本軍対李舜臣指揮の朝鮮軍)・幸州山城攻防戦(1593年2月、宇喜多秀家指揮の日本軍対権慄指揮の朝鮮軍)とあわせて韓国では三大捷と呼ばれている。
翌文禄2年(1593年)1月、李如松率いる明軍43000余人が平壌に進攻し奪還。しかし日本軍は漢城郊外の碧蹄館の戦いに勝利する。この段階で両者の戦線が行き詰まり、和平交渉が始められた。
占領各地では義兵の決起が生じ、このため武器・兵糧不足に悩まされた。この義兵は流民も多く、朝鮮の民衆や軍隊も襲う事もあった。漢城に集結して和平交渉を始めていた日本軍だが、本土から釜山までの海路の補給は維持していたが、釜山から漢城までの陸路の治安が悪化して食糧などの補給が滞りがちであったため、加藤清正が捕虜にした李氏朝鮮の二王子の返還と引き替えに釜山周辺の南部へ4月頃までに移陣した。
それにより兵力と補給に余裕が出てきたので朝鮮南部の支配を既定事実とするため、朝鮮南部へ布陣した諸将を動員して第二次晋州城合戦で晋州城を攻略(当初は漢城戦線を維持したまま本土からの新戦力を投入する計画であった)、更に全羅道を窺うも明軍の進出によって戦線は膠着し、長い休戦期に入った。